中山道・塩名田宿


東信濃・中山道・塩名田宿(しおなだじゅく)


江戸から四十三里十三丁
二十三番目の宿場

千曲の流れと街道が交わり
小さいながらも
渡し場として栄えた河川交通の要衝。
浅間の霊峰とともに
本陣跡をはじめとする家並みや
舟つなぎ石などが
往時の様子を伝える…。








 塩名田宿の紹介


  江戸時代の塩名田宿は、小さな宿場であったが、幕府が中山道の通行上、
 千曲川が横たわっていて大洪水で不通になっては困るとして設けられた。
 そこで、伝馬、架橋、舟渡し、連台渡し、宿泊所の提供など他の宿場とは
 比較に出来ない任務を負担した。
  明治・大正のころは、北佐久郡の中央で、東西南北の交通の要所、
 風光明媚な所として知られ、周辺の町村とは異なる風景を呈していたようだ。
  養蚕と米の生産が重要視されていた明治のころ。
  養蚕の黄金時代といわれるほど生糸輸出が好調だった大正のころ。
   ・志賀銀行が明治36年に塩名田に支店を設け、つづいて製糸工場「中津館」が
    営業し肥料会社もできた。大正6年中津館に工男女が170人もいた。
   ・明治26年4月国道7号線に舟橋に替わって中津橋が架け替えられた。この
    ころから塩名田花街が出来た。「塩名田甚句」は江戸時代末に唄われ初め
    て、上り下りの旅人にまで唄われ、明治33年ころ初めて芸妓許可になった。
    「塩名田節」は芸妓たちが他地方の民謡をまねているうちに、塩名田独特の
    歌詞をつけ、芸妓屋で芸妓のたしなみの中で優美化されたものという。
    芸妓は最も盛んなころは80余人もいたという。